長年の間、多くの人とシェアしたいと思いつつ躊躇っていたことを、
今日思い切って文章にしてみると、すらすらと出てきました。
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意識的に「わたしはヴェジタリアンで通す」と決めてから、
毎日生きているのが楽しくなってきた。
地球の住人、すなわち宇宙の住人として、
調和の取れた正しい選択をしたからだと思う。
身体が細胞レベルで常に新陳代謝をしているように、
ミクロのレベルでも、そして宇宙と言う巨大なマクロのレベルでも、
呼吸をするように、全てが常に変化し、循環を続けている。
生物のレベルでは、食物連鎖がそれを良く表している。
知能を持った人間として、正しい選択をした私は、
食物連鎖の中で、
宇宙のジオ・ポジショニングの中で、
すんなりと適切な場所に収まっている。
だから、それが心地よくて、楽しくて、嬉しくて仕方ない。
私が呼吸するたびに、二酸化炭素が宇宙にリリースされる。
そして身体の中に酸素が取り込まれる。
常に、一瞬も休むことなく、
私の身体は、宇宙との循環を続けている。
ということは、私の身体という実体など無い、ということである。
私は、私の身体を持ってして、この世の中で生活をしているけど、
私という存在は、瞬間ごとに変化している、儚い存在だ。
常に変化しているがゆえに、物質的に「これだ」と言えることは出来ない。
私という存在は、単なるコンセプトなのだ。
でも、私は存在している。
今、私がここにいて、意識的な存在として考えているのだから、
それには疑いの余地は無い。
でも、身体で見ると、私は一瞬たりとも定めることの出来ない、とても儚い存在だ。
もし「これが私だ」と定めるとしたら、
それは、宇宙しかない。
宇宙が私なのだ。
身体が儚い存在だからゆえに、
私という存在は、1つの宇宙でしか在り得ない。
私が宇宙なのだ。
食べたり、食べられたり、食物連鎖や生成と破壊といった、
ミクロとマクロの循環をしている、
大きなひとつの塊、宇宙。
それは私でしかあり得ない。
なぜなら、今、ここに、私が居るのだから。
そんな私は、たまたま何かの偶然で、
この小さくて儚い身体の中から、
その事実を楽しむことになっているだけ。
そして私は楽しんでいる。
このようなロジカルな思考に耽っていると、
恍惚とした幸せな気持ちに満たされて、
自分は頭がおかしくなったのではないか?
でもロジカルに考えているだけなのに?!
と思っていた。
後で知ったけど、このような感情を「オーシャン・フィーリング」と呼ぶらしい。
そして、ヴェーダーンタを勉強するようになってから知ったけど、
人が幸せに感じる時というのは、
自分が何も求めていない状態、
自分と対象物の間にある分け隔てを、意識していない状態
ということを知った。
それゆえに人は、好きなものを手に入れたとき、それを経験しているとき、
自然の景色を見ているとき、思考や感覚が麻痺しているとき、
寝ている時、幸せを感じる。
自分の小ささを経験しなくて済む状態、
自分と対立するものが無い状態、
そんな状態にある自分が大好きなのだ。
幸せというのは、自分の本質、つまり何の境界もない、
ただ一つの意識的な存在なのだ。
「私は宇宙」という理解も、自分を小さくしている境界線が取り払われて、
境界の無いひとつの宇宙という存在で自分を認識していたから、
幸せを感じたのだろう。
そんな考えに至り、そんな考えがすんなりと来る心を持てたのも、
始まりは、自分が宇宙と調和する選択をしたことだった。
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