「ヒンドゥー教は、この宇宙の全て、あなたも私も神様なので、
もちろん食べ物も食べる人も皆神様です。
だから、アハマンナム(私は食べ物)で、
その次のマントラが、アハマンナーダハ(私が食べる者)なのです。」
本文から
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今日はエーカーダシーゆえに、あまり目新しい食べ物ネタは無さそうなので、
いつもとは違うトピックを書きますね。
ヒンドゥー教では、料理をしたら、まずバガヴァーンに捧げます。
そして、それをプラサーダムとして、皆でいただくのです。
(プラサーダムについては、後ほど詳しく説明しますね。)
ゆえに、一度手をつけた食べ残しをバガヴァーンに捧げるわけにはいかないので、
味見は出来ない、という論理です。
ちなみに、バガヴァーンに捧げる前に、花や食べ物の匂いを嗅ぐのも
同じことです。インドの神々は、食べ物を見るだけで、
もしくは蒸気を吸うだけで、満足するので、
匂いを嗅ぐと言うのも、食べることと同じことなのです。
ダイニング・ホールにある、 ガネーシャの神棚。 お腹の大きなガネーシャは、食べ物を供する場所でよく奉られています。 |
ゆえに、伝統的なヒンドゥーのキッチンには神棚があります。
料理をするときにも、衛生学的な清さよりも、宗教的な清さがもとめられます。
味見をしないのももちろんですし、キッチンで飲み食いするのもご法度です。
食べている途中の人がキッチンに入ることもよしとされません。
出来たご飯を、一番に神棚に捧げる。
これを「ナイヴェーディヤ」といいます。
そして、そのお下がりをいただく。
自分が食べるときも、自分の身体の中のバガヴァーン、
つまり消化能力として表れている、宇宙の法則に対しての捧げ物として、
ご飯をいただく。
そして、食べること、食べ物、食べる人、食べる機能、
全てを可能にしている知識と、それを支えている意識的存在、
つまりバガヴァーンに対して、
そしてそれは他でもない、この私に対しての
捧げ物として、ご飯をいただくのです。
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ヒンドゥー教は、この宇宙の全て、あなたも私も神様なので、
もちろん食べ物も食べる人も皆神様です。
だから、アハマンナム(私は食べ物)で、
その次のマントラが、アハマンナーダハ(私が食べる者)なのです。
そんな、何でもかんでも神様って、何を信じていいか解らなくならない?
って一神教の人に聞かれそうですね。
あれもこれも多様な現象の全ては、物理とか生理、心理の法則の中で起きている。
法則とは知識に他ならず、ということは、全ての現象は知識の現れ。
知識は必ず、意識的な存在のところにある。
無数の多様な知識の存在は、ひとつの意識的存在に支えられている。
その、意識的存在ってどこにあるの?
それは、いまそこにあるあなたに他ならないでしょう?
だから、全てが神様なのです。
このことは、理解されるべきことで、
信じるべきことではありません。ヒンドゥーの教えとは信仰では無いのですよ~。
一神教のように、あなたとは違う、どこか別の場所にいる、
誰か別の人が神様だなんてことを、信じることを要求する、
そんな宗教ではありません。
じゃあ、全てが神様で、私も神様だったら、
ご飯を食べる前に、味見もせずに、バガヴァーンに捧げるとか、
寺院にいって、バガヴァーンの偶像にお祈りするとかって、
どういうこと?
と思われるのは自然なことです。
その説明は、最初にあるように、
ヒンドゥーの生活の隅々にまで渡っている、
「祈りのフォーム」とは、
「自分のどこをとっても、バガヴァーンとは別の存在では無い」、
と最終的に解る為の仕掛けなのです。
いきなりこんなこと言われても、深すぎますね!